彫刻
昭和42年3月11日
福島県岩瀬郡天栄村大字大里字安養寺34番地
寄木造り
この像は、寄木造り、彫眼、黒漆の彫像で、ややいびつではあるが、後頭部の発達した頭、きわめて高く秀でた大きな鼻、静かに澄んだ眼、意志的に引き締まった1厚い唇、額や頬に深く刻まれたしわが、よくこの高僧の面影をとらえています。
鎌倉彫刻の写実性は、高僧の精神的内容を表現しようとする頂相彫刻にその極到を示すといわれますが、その点この像は一応その個性を描写するのに成功しています。
法燈国師は鎌倉時代の僧侶で、承元元年(一二○七)信州神林村(現在の長野県松本市)に生まれました。江戸時代後期の白河藩主で時の幕府老中松平定信が文化二年(一八○五)に編纂させた「白河風土記」には彼が現在の須賀川市長沼にあった会沼近くで生まれた漁師とあります。
十九歳で剃髪し、奈良の東大寺や和歌山の高野山で僧侶として修行をしてのち、鎌倉、京都、上野国(現在の群馬県)、甲斐国(現在の山梨県)などの各地の禅の名僧を訪ねて研鑽を積み、建長元年(一二四九)、四十九歳の春、中国に仏教留学します。
何年かののち、日本へ帰る際、みそ、醤油の製法を伝えると共に、尺八を吹く虚無僧を一緒に伴ってきました。
その後紀州由良(現在の和歌山県由良町)に臨済宗法燈派の興国寺を創建し、永仁六年(一二九八)九十二歳の天寿を全うし、死後、後醍醐天皇から僧侶の最高の位である国師号を贈られました。
この坐像は古くから国師自ら彫ったと伝えられ、赤ん坊の夜泣きを治す「ほっとこさま」として現在も近郷近在からの子連れの参拝者が絶えません。
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