史跡
昭和57年9月1日
福島県岩瀬郡天栄村大字大里字二木松146
この二木の松は、その名の由来が一本の松が丘より立ち、片方の松は北の峰(大里牛ケ城跡)より伏して互いに枝を交え、あたかも天空を覆うように見えたということによります。
奈良時代前期、今から約千三百五十年余り前、天智天皇の時代に、かの大化の改新を実現した藤原鎌足が都から常陸国(現在の茨城県)鹿島神宮参詣の際この地方に二木の松という名木があると聞き立ち寄りました。ところが初めてのみちのくへの旅、道に迷い途方に暮れてしまいました。するとどこからともなく男女の稚児が現れ、この松への道案内をしてくれました。この稚児こそこの地域の鎮守 武隈神社の祭神 伊邪那岐、伊邪那美の神々だったということです。鎌足が稚児に逢った場所なので、それ以来この地は逢う里、つまり大里といわれるようになったということです。
音に聞こえた待望の名木と対面した鎌足は道案内してくれた武隈神社の神々へのお礼として、神領を寄進して「杳かなる 程を思ひば 武隈の 松の翠や 君が行く末」と和歌を詠み、江戸時代後期に時の白河藩主 阿部能登守正備の筆による歌碑がこの地に建立されました。現在ある松は四代目で、平成六年五月、当時樹齢三百年以上といわれた三代目の松が害虫により惜しくも伐採されました。
なお、同名の松が宮城県岩沼市の竹駒神社近くにあり、江戸三大改革の寛政の改革を断行した江戸時代後期の幕府老中、白河藩主 松平定信が当時の藩内の歴史、地理、伝承などを文化二年(一八○五)儒学者 広瀬 典に編纂させ『白河風土記』にその関連などが記されており、興味深いところです。
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